結局、あの日の夜。
初老の男は、俺と世間話をして―――それで終わった。
どこぞの土産にある、名物料理は素晴らしい、とか。
この近くに、新しく美術館が出来るのだ、とか。
町の子どもたちと、こんな話をして、こんな遊びに付き合った―――
ひたすら俺は、その話を聞いていた。
聞いてはいたが、
美術館と言われても、何をするものか分からないし
子どもの遊びもまったく知らないから、返事のしようが無い。
それに、自分があの場で何かを言う訳にはいかなかった。
黙っていたのは決して、相手の気の済むまで話を聞くためではない。
俺は、自分に何が起きているのかも、何が起きるであろうかも、理解していた。
もしも、あの会話で。
一見すれば、なんともない自然な空気の中。
自分がどこかで”選択肢”を誤れば、その命は無かったであろうコトも。
表向きは、優しい笑顔の絶えない山羊の顔を。
だがその実、冷酷な二本の角をいただく悪魔の顔を持つと言うことを。
それを当然、俺は知っている。
あの男に、俺は感謝している…それなりに。
自分が誰かも分からずに、ここが何処かも知らずに。
生きるすべも持たず、頼るべき者の存在も無く。
それまで何をしていたか、俺は一切を思い出せないまま。
さまよい力尽きかけたのを、あの男に拾われたのだ。
街まで案内してくれた者もいた。
怪我を診てくれた者だっていた。
でも誰も、俺を養おうとする人は居なかった。
あの頃は、自分と似たような境遇の子が急増していたと聞いた。
子どもだけでなく、大人ですら惨めな生活を送っている者もいたのだ。
そう言った連中は、”危険人物”の場合が多く、近付かないようにしていた。
弱い者は、さらに弱い者を、そのハケ口にする。
そんな連中が、自分のお気に入りの場所を奪っていったのは、一度や二度ではない。
当時の自分は、なぜか言葉の
そんな訳で、引き取り手が居なかったのだ―――あの男を除いて。
いわく。
服も身体も真っ黒な中で、射すように際立つ眼が気に入ったとか。
そんなコトを言われた時から、なんとなく、
本当になんとなく、あまりイイヤツではないと、察してはいた。
とは言え、道の草を食べてみたり、小動物を捕まえてみたり。
そんな暮らしの中で、いとも簡単に限界を迎えた自分には
それを拒むなどと言うことは、できるハズもなかった。
***
「…ふぅ…」
アーチを描いた高い天井を見上げ、物思いにふけった俺は大きく息を吐いた。
改めて、自分が場違いな場所に来てしまった気がしてならない。
なんせ、ゴロゴロと転げ回れるほどに広いベッドの上に、いま俺は居るのだから。
その端まで転がって、床をのぞき込めば。
そこには、磨き上げられた石の床に映り込む、自分の顔があった。
もちろん、全ての原因は、あの日の夜にある。
あの時の話が”本当”ならば、男の重要な書類が何者かに盗まれたらしいのだ。
言葉をそのまま借りるなら、何処かに
「いやいや、捨てるつもりのモノだったのだよ」
そう笑ってはいたが、それはつまり”取り戻して来い”と言う意味だった。
面倒臭い事この上ないが、それがあの老人のやり方だった。
あくまでも、形の上では”相談するだけ”。
それを自分たちが、善意で勝手に行動しているコトにする…。
誰と話した訳でもないが、俺は勝手にそう言う筋書きだと確信している。
数多く持ち上がる話題の、どれが本当の用件か。
それを知るために、細心の注意を払う必要があるし
余計な口出しをして、話の腰を折る訳にもいかない。
こんなにも、神経のすり減る会話は無いだろう。
もう十分、あの時の恩は返したと思う。
それでも、俺は離れられずにいた。
服の中から取り出したのは、いつか見た小瓶。
あの日、話が終わった時。
「やはり、これはケル…君に渡しておきたい」などと
白々しいセリフと共に、結局、あの袋を渡されたのだった。
これも、いつものコト。
そして今。
その”盗人”やらは、ここの屋敷に居るらしいのだ。
つまるところ、潜入捜査、と言うと響きだけは良いのだろうか。
自分に与えられた部屋一つとってみても、恐ろしく広い。
安宿にも泊るコトはあるが、軽く見ても、その二部屋ほどはある。
花瓶には、青々とした草花が生けられ、柱も棚の取っ手も
複雑な模様が描かれていたり、動物をかたどった彫り物がされていたり。
そんな豪邸に、一人忍び込んで目的を遂げるよりも
堂々と乗り込んだ方が、効率的と判断して、今は使用人に
当然ながら、普通に出向いたのでは追い返される。
誰かになり済ますにしても、容姿が似ている必要があるし
何より、立ち居振る舞いでボロが出るに決まっている…となると―――
―――新人が他の使用人と顔を合わせる前に、すり替わる。
都合の良いコトに、丁度タイミング良く人員補充のために
若い男が、ここへ来る予定だと分かった。
そうと分かれば、後は楽なものだ。
都合よく現われなかったら、どうしたか…?
”自分の手間”が一つ余計に増えてしまうが、ただそれだけの話。
俺は、もう一度、深いため息をついた。
本音を言えば、今すぐに帰りたい。
普段、味わうコトの叶わない豪華な暮らしなのだろうが
あまりにも居心地が悪すぎる、ここは自分には合わない。
だが、三日目が終わろうと言う今日になっても、手掛かりはナシ。
仕事で特にヘマもなく、素性はバレていないが。
俺は、ほとほと参っていた。
―――コンコン
部屋の入口が二度、叩かれる。
使用人と言う役柄上、俺は素早く立ち上がり
扉を開こうとして…あわてて身なりを整える。
小さく音を立てて、開かれた扉。
そこには、笑顔を振りまく真っ白な狐の少女の姿があった。
「こんばんは!」
尻尾を楽しげに揺らして、彼女は笑った。