「おかえりなさい、お父様!」
玄関で主人を迎える使用人一同の前で、アトナは叫んで父親に飛びついた。
その晩は、突然の荒れ模様だった。
空を黒く雲が包み込んで、叩きつけるような激しい雨が降り注いでいた。
窓の外で、木々は狂ったように揺れているが
それだけでは飽き足らずに、暴風は降りしきる雨粒を真横に殴りつける。
不気味な喧騒に包まれる屋敷の中、自身の身体が濡れるのも気にせずに
少女は、全身を濡らした父親に、久しぶりのあいさつをしていた。
ただでさえ久しぶりの帰宅、それがこの天気でズレ込んだのだ。
それを考えれば、仕方の無いことだと言える。
彼女に似て…いや、彼女が似たのか、その男は真っ白な毛並みをした狐だった。
キレイに着込んだ礼服も、整えられていたであろう毛並みも、無残な姿をさらしている。
何も言わずにアトナの頭を撫でていた彼だが、娘が落ち着いたのを確認すると、離れるよう告げた。
「行儀が悪いぞ、アトナ」
下っ端のケルが、身体を拭くようにタオルを差し出す。
他の者が、濡れた上着や荷物を預かって、下がっていく。
「留守中、問題は無かったか」
父の問いに、娘は胸を張る。
「何も無いわ、良い子にしてたもの」
自分をまっすぐ見つめる娘を見、それから男は使用人を見回して一言。
「娘が世話を掛けたな」
むくれるアトナを尻目に、靴を脱ぐ男。
その時、慌てた様子で一人の中年の使用人が駆けて来た。
「入浴の準備、整いました」
主人は、軽く手を挙げてそれに応えると、ケルの前に立ち微笑んだ。
「君が新しく来た…」
「―――エルと申します」
ケルが深く頭を下げる。
「私がフリオだ、こんな恰好ですまないが」
「いえ、それよりも…風邪をひかれてしまいます」
濡れた服と身体を見下ろして、渋い顔をするフリオを、ケルは気遣う。
「ああ、床も濡らしてしまったか…。
皆、出迎えご苦労だった、もう休んでくれて構わない」
その言葉に、料理長は少々肩を落とした様子だった。
「旦那様、お食事は召し上がらないのですか?」
今日は、いつも以上に腕を振るったのだろう。
ケルは、その”いつも”を知らないけれど。
その言葉に、フリオはハッとして、再び呼びかけた。
「食事を待たせてしまって、すまなかった。
悪いが、私抜きで食べてくれないか」
疲れた顔でそう言うと、無念そうに一言、料理長に付け加えた。
「お前の食事を楽しみにしていたんだが、今日は具合が悪くてな」
それならば仕方ないと、料理長はフリオに一礼して去っていく。
こうして、床を拭く者や厨房に立つ者など数人を除いて
今日の仕事は終わりを告げたのだった。
視界の隅で、ケルに目配せをするアトナの姿が見えた。
父親と一緒に食事できないコトを、残念がる余裕は無いらしい。
さり気なくケルはそれに応えると、笑顔でフリオを案内する。
首尾よくコトが運んだら、明日になってからアトナに結果を知らせる。
そう言う約束を、二人は交わしていた。
―――もっとも、書類が手に入り次第、ケルは姿をくらます気でいたが。
フリオが入浴をしている間に、ケルにはやるべき仕事があった。
まずフリオの部屋から着替えを取ってきて、脱衣場に準備しておく。
この当然の仕事とは別の”仕込み”は、意外とすぐに終わった。
後は部屋に人が近付かないように、じっと見守るだけ。
…思っていたより早く、フリオは入浴を終えて部屋へ戻ってきた。
ぎっ…
耳障りな音を立て、扉が開く。
***
ぎっ…
年季を感じさせる音色と共に、扉が開く。
半月ぶりの、自分の家、自分の部屋。
”自分の屋敷”は、やはり良いものだと、改めて私は感じていた。
久しぶりに帰ってきて、温かく出迎えられて。
疲れを流れ落としたら、私は何処か安心しているのに気づいた。
新しく入って来た、黒毛の少年はエル、と言ったか。
ここらでは見かけない、狼族の子だ。
あの一族は、あまり街に出てこないと聞いたことがあるが、特別な事情でもあるのだろうか。
歳の割に落ち着いた感があったが、見たところ上手く仲間に溶け込めていそうだ。
自然と顔にホッとした表情が浮かんでいたが……しかしすぐに、それが強張るのを感じた。
私の片付けそびれた羽根ペンの乗る、石の如く輝く机には分厚い紙束が置かれていた。
それは私が娘に預けていた書類に、間違い無かった。
誰にも見せないように、言い聞かせてあるし
大切に扱うよう、パズル好きな娘のために謎かけじみたコトもした。
もちろん、コレだけでは不十分な内容だ。
なんせ、半分以上は私が厳重に保管しているのだから。
もし間違って、これが無くなるようなコトが起きても大丈夫。
大丈夫なハズだ。
だが、この紙束の一番上、その
誰かが、いや、誰かは分かっている。
嗅ぎつけられた、そうに違いない。
となれば、もう誰にも預ける訳にはいかない。
私がこの手で、守り抜かなければいけない。
―――いつからだ、いつ気付かれた?
少なくとも、私がこの書類を手にした後だ。
だがその後、この家の人間は何度か人が出入りしているし
仕事の部下も、新しく迎え入れたトコロだ。
…いや、待て。
あらかじめ見越されていたとしたら?
ずっと信じていた昔馴染みが、実は”向こう側の保険”だとしたら。
一体どれくらいの間、そうしていたのか。
数秒か、それとも数分か。
いずれにせよ。
―――コンコン
扉をたたく音が、思考を断ち切った。
すぐ後ろの扉、その向こうに、誰かが居る。
粘つく汗が、流れるのが分かった。