「お飲物をお持ちしました、旦那様?」
その声を聞き、ようやく身体の硬直が解ける。
「あ、ああ、ありがとう、今開けよう」
とりあえず、手近な本棚に書類を紛れ込ませておく。
だが扉を開けかけ、その手が動きを止める。
―――開けて大丈夫なのか?
鳴り響く、頭の中の警鐘の音色。
飲み物を頼んだ覚えなど無い。
それとも、アトナが頼んだのだろうか。
身の周りの人間を、これほど恐れたコトは無い。
心臓の脈打つ音が聞こえる。
あれほど騒がしかった雨雲は、いったい何処へ消えたのか。
自分の鼓動が、どんどん耳障りなモノになっていく。
どうすれば良い?
逃げる?
だが、この部屋の出口は他に無い。
いや、そもそも私一人で逃げる訳にはいかない。
ならどうする?
どれくらいそうしていたかは、定かではない。
ただ、ドアノブをつかんだ手が、じっとりと濡れているのに気付いた。
それでも未だに、堂々巡りを繰り返している。
どうすれば。その答えが出る前に。
ばんっ。
思い切り、扉が押し開けられた。
すくみ上がった私は、思わず後ろに倒れ込む。
「旦―――…あ…?」
鬼のような形相で現れた、厨房のスタッフは
倒れた私と目が合うと、なんとも間の抜けた声を上げた。
扉を叩きつけてしまったコトを、慌てて謝るスタッフを
私はなだめながら、飲み物を受け取った。
どうやら、部屋の中で私が倒れていると思ったらしい。
具合の悪さを訴えていたし、そう思われても仕方がない。
グラスから一口だけ飲むつもりだったが
いつの間にか、酷く喉が渇いていたようで、あっという間に飲み干してしまった。
「顔色が悪いですが、お医者様をお呼びしましょうか?」
「いや、ありがとう、大丈夫だ」
なおも言い
私は扉に背を預け、書類を押し込んだ棚を見つめた。
その瞬間、ある考えが浮かぶ。
あの書類は、アトナが持っていた物なのだ。
―――ならば、娘に何かあったのではないか?
部屋で血の海に沈む娘の姿を想像して、顔から血の気が引くのが分かった。
自分の目で確かめなくては、すぐにでも。
寝静まり始めた、夜の屋敷を突き進む。
背中が、頭の芯が、凍えたように冷たい。
気分も悪く、吐き気すら覚える。
次々に浮かぶ考えを払いのけ、私はアトナの部屋までやって来た。
強く、扉を二度叩く。
ほんの少し間を開けて、さらに強く。
返事は、ない。
ひゅぅっ。
かすれた音を立て、息を深く吸い込むと、私は静かに扉を開けた。
窓にはカーテンをかけ、明かりの消えた部屋は、どこまでも果ての無い闇に思えた。
それでも目が慣れてくれば、ベッドの上に横たわる小さな姿を見て取れる。
恐る恐る近付いて、娘の首筋に指を置く。
―――無事だった…。
崩れ落ちるように、その場に膝をついて息を整える。
呼吸を落ちつけ静かに部屋を出ると、今度は素早く道を引き返す。
一刻も早く、”あの場所”へ隠さなくては。
そしてすぐに、アトナを連れ出して逃げ出さなくては。
私は荷物から、透明なガラス玉のようなモノを取り出した。
大きさは握りこぶしほどで、表面には大小の
それを書斎の柱の中ほどにある、彫刻された獣の頭、その口の中へねじ込んだ。
手首をねじって半回転させた後、球を引き抜く。
何も起きたようには見えないが、それで良い。
私は、辺りを確認して、寝室へと向かう。
その扉をくぐり抜け、後ろ手に閉めて鍵を掛ける。
それから
さっきのガラス球で、このレバーの固定装置を解除したのだ。
すると分厚い床が、入口のわずかなスペースを残し、大きく沈み込んで行く。
音もなく、奈落へ吸い込まれて行くかのように。
周囲に、地下牢を思わせる土壁が露出する。
屋敷には存在しないハズの、地下一階――そこが目的地。
錆びた古い鉄の扉を開けた先が、私の秘密の倉庫だった。
その横に見えるハシゴは、非常用のものだ。
書斎へ通じる扉の真下まで、伸びている。
火事を防ぐため火気は一切なく、地下は暗闇に閉ざされていた。
暗くよどみ、ジメついているが、扉の中は物を長期間保存できるよう設計されている。
持ってきた書類を適当に放り込むと、即座に
だが、すぐにその足は止まるコトになる。
暗闇の中から、狼の影が、ぬぅっと現れたからだ。
いや、本物の狼では無い、そうでは無いが―――
「なぜ、君がここに居る!?」
戸惑いの声を上げる以外、私に出来ることは無かった。
***
「なぜ君がここに居る!?」
目の前に居る、白い狐の男――フリオ。
その
「なぜって…?」
俺は、不思議そうに首をかしげて笑顔を見せた。
「
その言葉に、男は愕然とした様子でよろめいた。
「ばかな、そんなハズはない、そんな…」
首を振れば俺が居なくなるとでも言うように、必死になってフリオは否定する。
俺はフリオの行動を、見守っているつもりだった。
だがコイツは、書類を放り込んで引き返そうとした。
だから仕方なく、姿を現したのだ。
「”残りの書類”、ここにあるんですよね?」
白い毛並み越しでも、顔面蒼白になっていくのが見て取れる。
俺一人でも探せない広さでは無いが、明りも無い上に
扉の外の昇降機が上にあがったら、恐らくハシゴも使えない。
俺は、目の前で震え始めた男に得物を突き付け、冷たく言い放つ。
「出せ」