あの事件から、何日かが過ぎた。
ケルは今、部屋の天井を眺めていた。
”あの時”そうしていたように。
あの家の天井とは、比べるべくもないが構わない。
本当は、何も見ていないのだから。
どこをどう歩いたのか、あの激しい雷雨の中をケルは帰って来た。
その
雨が一滴残さず血を洗い流していたのは、幸いだった。
あの後、この館の主でもある養父の元へ呼ばれて。
いくつか相談を、聞き流した。
笑顔の裏側で、どう思われているか想像するとゾッとしたが
あれから、何もする気になれないでいたのだ。
もちろん、破れ汚れた文書を見て、あの男が心安らかな訳は無い。
いつもの別れ際、薬は渡さないと、あいつはそう言った。
だが、身を固くするケルを見ると満足したらしく、小瓶を手渡してきたのだ。
ケルの場合、数々の相談の実質上の報酬は一つだけ。
それが、その小瓶の中に詰まった粉末状の薬。
それを飲むことで、”発作”の症状を緩和、軽減していた。
―――『秘文症』
それが、ケルの抱えた病気。
古くから伝わってはいるが、原因は分かっていない。
人から人には感染した報告が無いこと、人以外に発症しないこと。
その他は多くが謎に包まれた、未知の病気。
発作が出るまで、感染しているのにすら気付くことは出来ない。
その発作に襲われると、視界に映るあらゆる物から、光の粒があふれ、流れる。
それらは明滅を繰り返し、うねり渦巻く。
その光の粒は、何かの文字にも見えないコトもない。
さながら景色の至る所に、あぶり出しの文字が隠されているかのように。
古来の人々は、それを”秘文”と呼んだのだ。
その症状で最も危険なのが、全身を貫く激痛。
特に痛むのは頭ではあるが、症状が進むにつれ、全身を砕かれるような感覚に陥ると言う。
錯乱する者、自らの命を絶つ者、突然の発作に、不幸な事故にあう者。
その大部分は、この痛みが原因だった。
そしてそれは今、ケルの身に起きていた。
こんなモノに冒されてさえいなければ、今よりは自由だったろうに。
厄介な病気に加え、追い討ちをかけるように、もう一つの発作がケルを蝕んだ。
―――ズキン…。
鈍い胸の痛みと吐き気は、未だに続いている。
頭をかかえながらも、瓶を取り出して薬を口へ。
頭の中に鳴り響く雷鳴も、少女の影も、その痛みも。
薬で治るなら、どんなに楽か。
そんな都合の良いコトを考えて、そこで異変に気付く。
痛みが、引かなかった。
ケルは考える、身体が薬に耐性を持ったのかもしれないと。
もう一度ケルは薬を飲むが、それでも変化は現れない。
―――まさか、いやでも
渡すのを渋った、今回の小瓶。
その中身は、いつもの薬とは別の何かだったのではないか。
ケルに瓶を渡した時に見せた、男のあの微笑。
どこか引っかかっていたあの表情の意味を、ケルは今頃に理解した。
―――騙されたんだ
悟った瞬間、痛みが強さを増した気がする。
だがケルにはもう、耐える以外になす術は無い。
徐々に強さを増す痛みは、全身に広がっていく。
寝具から床へと転げ落ちた気もするが、もう上も下も分からない。
もがこうが、暴れようが、叫ぼうが、何をしたところで発作は治まりはしない。
それは、あの日の再現でもあった。
駆け抜ける不安と恐怖に、底冷えする身体を抱きしめる。
目の前は、光の嵐が吹き荒ぶ。
目を閉じれば浮かぶのは、あの日の雷雨。
耳は多分、自分の声を拾っているのだろうが、頭には入ってこない。
誰かを呼びたいが、これが与えられた罰である以上、きっとどうしようもないのだ。
第一、
もう、手放してしまおう。
こんなに辛いなら、意識を手放してしまおう。
頭の中で、白が弾けそうになった、その時だった。
「ずいぶん苦しそうだな、オイ」
優しい響きが、ケルの意識の間に滑り込む。
うっすらと目を開ければ、そこにはあの時のウロコ男。
気遣う言葉を口にしてはいるが、その眼には危険な光。
当然、気絶できなかった以上は痛みが続いている。
発作の治まらない、そのケルの頭を男はつかみ上げる。
「気絶なんてすんなよ、
霧のかかった意識の中で自分が危ない状況にあると、ケルはぼんやりと認識した。
だが、まともに抵抗できる状態でも無い。
「痛いだけだから、な!」
陽気に笑って、男はその手で頭を締め上げる。
頭が
意識が遠のいては近付き、また遠のく。
焦点の定まらない瞳は、熱に浮かされたそれに似ていた。
こいつには、敵も味方もありはしない。
自分が”楽しめる”のであれば、それで良いのだ。
ケルは、この男の加虐嗜好を嫌と言うほど知っている。
どうせ今の今まで、部屋の入口で一部始終を見ていたに違いない。
自分の楽しみが終わりそうだと勘付いて、中に入って来たのだろう。
抵抗できないのは、ある意味で運が良いかもしれなかった。
どうせ抵抗すれば、ますます酷い目にあうのだろうし。
そんなコトを考えると、ふと笑みが浮かぶ。
「なんだ、余裕そうだな?」
男はどこか白けたように言うと、表情を変えずにさらに手に力を込める。
男の期待に応えられないようで悪いが、ケルはもう泣き叫ぶ気力がない。
発作も、引いてきたように感じる。
「仕方ねぇなぁ…」
男はため息を一つつくと、やはり笑顔で。
「俺様が頑張ってやるから、もう少し付き合えよ」
これはもう、完璧にスイッチが入っている。
このままオモチャにされる訳には、いかない。
いかないが…こうなったらもう、今のケルには止められそうにない。
「痛かったら手ぇ挙げろよ、なんてな」
そう告げる男には、清々しいまでの笑顔が浮かんでいた。