「見ず知らずの他人に斬りかかる理由が、私には見つからないのでね」
笑顔を崩さず、無防備な姿すら見せる男に、ケルは小さな苛立ちを感じた。
だがそんな姿も、場にそぐわない言葉も、上っ面のものだと言うのは理解していた。
今までの動きを見れば分かる。
どこか油断している節もあるし、それで足元をすくわれかけてはいたが。
場馴れとか、その程度の話ではない。
「私だって、大人しく殺されるつもりは無いし…」
どうすれば良いと思う?
そう尋ねるように、首をかしげ―――ケルの返事よりも先に、何かを思いついたらしい。
「…君、諦めて帰るっていうのは、どうかな?」
どこからが本心で、どこまでが冗談なのか。
ただの無防備な市民を装っているのは分かったが、その言葉の内容の真意はつかめない。
とりあえず分かったコトと言えば。
―――こんな話に付き合ってもムダ。
ケルはそう判断して、即座に地を蹴り再び黒の風となる。
緩急の付いた動きで視界から消え去り、すぐさま相手の意識の網からもすり抜ける。
さほどの間は空けず、ケルが姿を現したのは男の真正面、その足元。
しゃがみこみ、既にその脇には刃を構えていた。
刃の一閃。
脚から腰へ、さらに肩へと力を伝え、下から吹き上げる突風の如き一撃。
だがケルは、次の刃は繰り出さない。
かといって、無理に押し込もうとも思っていない。
刃が交差したその瞬間を狙って、その刃を鋭く真横に引いただけ。
ぎゃりりっ!
耳障りな音を立て、白い剣は刃を削り取られ、その刀身は二つに折れる。
ケルはパワータイプでは無い分、武器の切れ味と、それを活かす太刀筋でカバーしていた。
完全に武装解除した訳ではないが、今はこれで良い。
自分の狙い通りにできたコトなど、興味が無いとでも言うように
すかさず攻め立てるケルを見ても、男はこの緊張感をどこか楽しんでいるだけ。
剣が折れてもなお、男は短くなった刃と柄を使いつつ、攻撃をしのいでいる。
猫族だけあって、夜でもある程度は見えるのだろうか。
この黒い刃を、よく見切っている。
ケルは、刃で外角からえぐるように左腕を突き出す。
男はそれも見切って、かわした…つもりなのだろうが。
やはり、刃を完全に視認できている訳が無いのだ。
瞬間的に逆手に持ち替えられていた刃は、男の脇腹を、浅く薙いだ。
すぐさま返す刃を突き立てるように、左腕を振るうケル。
ガッ
脚めがけて振り下ろされた刃は、折れた剣よりも
一回り小さな、片刃の剣によって防がれていた。
「…誰か来るようなのでな」
確かに遠くで、誰かの話声が聞こえる。
「悪いが、終いにしよう」
言うなり、唐突に男は攻めに転じだした。
その瞳はもはや、狩人のもの。
見かけに反し、すさまじく重い一撃だった。
完全にケルが力負けしている。
その上、それがケルと同等程度の速さを持っているのだ。
多少なりとも、ケガを負わせているのに、だ。
ケルだって防戦一方に追い込まれてはいない、まだ、なんとか。
だがその反撃も間合いを殺されて、意味を成しているとは言い難い。
二刀で何とかこらえていたが、左腕を外側に大きく弾かれ、構えを解かれてしまった。
容赦なく、左肩から右脇腹へ。
男の剣撃を受けて、ケルは後ろに吹き飛んだ。
ずざざっ
受け身も取れないほどの痛みに襲われ、地を滑って倒れるケル。
気が付けば、ピタリと押し当てるのではなく、ほんの少しの間を空けて。
剣の切っ先が、空を向いたケルの鼻先に突き付けられていた。
「安心しろ、これは模擬剣だ」
言われてみれば、どこからも血は流れていないが…。
「骨は折れたかも知れんが、まぁ許せ」
…許せも何も。
まさか、素性の知れない刺客を生かしておくつもりか。
「この場を誰かに見られると、君に不都合があるだろう」
どうやら本気らしいが、そんなバカが居るものか。
目の前の剣を無視して、肘を地面について身体を支えようとした。
だが左腕を動かした瞬間、焼けるような痛みが首から左肩にかけて貫いた。
そう言えば、カッジェにやられたのも左肩だったか。
ムダだろうと知りつつも、あまり弱みは見せたくない。
地べたで横になったまま、ケルは歯を食いしばって男を見上げた。
右手は、なんとか動く。
武器を手放すようなヘマは、していない。
ならば―――
「さて、その物騒なものを手放してもらえないかな?」
見透かしたかのように、男に言い放たれる。
それには答えず、ケルは睨みつけるだけ。
男はやれやれ、と深くため息を一つ。
「聞きわけの無い奴だ、何もしやしないから安心しろ」
ケルの視線は、揺るがない。
「…右腕、折るぞ?」
一瞬ケルの耳がぴくりと一つ、緊張で動いたが、それだけだった。
男は切っ先を滑らせるように動かし、ある一点で止めると
手首の小さな動きで模擬剣を上下に揺らす。
トン、と、優しく触れられた、ただそれだけで。
骨折したと思われる部分が、悲鳴を上げた。
ケルは思わず、目を閉じ右腕で肩の傷をかばって。
「ぅぁ、おまえ…っ!」
その間に男に武器を遠くに蹴飛ばされたと気付いて、ケルは抗議の声を上げた。
「さて、行こうか」
言い終わるよりも前に、男はケルの身体を背負う。
身体が揺すられて、再び痛みがぶり返すケルのコトもお構いなしに、無造作に。
「ぐぅ…っ、どこ連れてくんだ、降ろせ!」
その言葉に応えるように、一瞬、男が腕の力を抜く。
がくん、とケルは落ちかけた身体を支えようと、慌てて腕に力を入れて。
当然ながら、大声で悲鳴を上げた。
予期していない痛みを、我慢できるはずが無い。
「…おい黒いの。耳元で騒ぐもんじゃないぞ…」
「なら、ちゃんと運べ!」
少々涙声になりながら、ケルは痛みを訴える。
「降ろせと言ったじゃないか…。
それにそっと運んだら、暴れただろ?」
などと、不満気につぶやく男。
そう言われると、ケルには答えようがない。
「降ろせと言ったり、運べと言ったり…わがままな奴だな」
男は小さく笑うと、器用にケルの得物を拾い上げて歩いて行く。
狙っていた命に、自分の命を救われて。
ケルは言葉にも出来ないような、複雑な心境のまま、大人しく背負われていた。