鏡ノ欠片

霧の最奥

ぎしっ…
気が付くと、俺は宙に浮いていた。
というより、天井から垂れた縄に手首を縛られて、吊るされていた。

手首は当然、体重の分だけ縄に食い込んでいるし
ムリな姿勢を強制されて、肩もひどく痛む。
意識の無い間とはいえ、ずっと下を向いていた首は、固まってうまく動かない。

―――ここは、何処だったか
確か俺は、夜に道を歩いていて…。
ふと顔を上げると、そこにはいつか見た人影。
男か女か、何も分からないが、恐らくはこの件の元凶。

ああ、やっと起きた。

そんな声が聞こえた。
声の高さとか、特徴とか、そう言ったモノは分からなかったが
それでも、俺に向けられた言葉であるコトは分かった。

俺は口を開こうとしたが、開けなかった。
どうやら、ココでは”傍観者”をしている他に無いらしい。
「困ったコトになったんだ」
その言葉と共に現れたのは、サバイバルナイフ。
「君が行方不明になったら、色々と騒がれ始めてしまって」
―――行方不明? 俺が?
そう疑問に思った瞬間、全てを思い出す。
昨日も、ここでこうして、こいつと話していたじゃないか。

確か昨日は、ひたすらに頭の痛くなる、訳の分からない話をされたのだ。
いわく、昔の世界は一つの大陸だったらしい。
へぇ、それと誘拐と何か関係があるのか。

君には”どこまでが世界”なのか、とか。
少なくとも、こんな場所と、おまえみたいな奴は俺の世界には要らないね。

自分には君が必要なのだ、とも言われた気がする。
それなら、まずはラブレターからにしてくれ。

意味の分からない質問、脈絡の見えない流れ。
それに軽口で答えていく俺。
それが昨日の出来事…だったように思う。
この奇人変人に、こんな場所に連れ込まれて
ベッタリ張り付かれて訳の分からない会話に付き合い、まともな食事もせず。
恐らく一般の例に漏れず、俺はイライラしていたし、早く自由になりたかった。

もちろん、怖かった。
でも誰かが探してくれる、きっと助けに来てくれる。
玄関先で倒れた時、鞄に付けていた小さな緑の鈴を、引き千切っておいた。
誰かがそれに気付いてさえくれれば、俺に何かがあったのだと。
そう察しを付けてくれるだろうと。

そう思わないと、この状況は耐えられない。
ここを抜け出した後のコトを考えていないと、押し潰されそうになる。
幸い、問答無用で暴力を振るうようなタイプでは無いので、何とか強がっていられている。
ただ欲を言えば、もう少し会話の成立するような、話の通じるタイプだとありがたかった。
頭の中が少しズレている ( ・・・・・ ) 程度で済めばいいが。

ナイフが鋭い輝きを放って俺の視界で己を主張する。
俺はハッとしたように、意識を”今”に引き戻す。
目の前の刃物を見る限り、今から起きる事態が、あまり穏やかでは無さそうだと告げていた。

「仕方が無いからね、君が死んだコトにさせて欲しいんだ」
声はそう告げたが、俺はいまいち意味が呑み込めず、目を二度三度とまばたきさせる。
それはつまり、身代金の要求とか、家族への恨みだとか
そう言った動機から、今回の事件が起きた訳では無いと言うコトか。
いや、待て、そこじゃない。

―――もう助けが来なくなる?

冷たいものが、胃に落ちた気がした。
もし誰も来てくれなかったら?
頼るべきは、もちろん自身だろう。
だが、そんなチャンスは巡って来るのか?
この縄を切って、建物の出口を見つけて、さまよい歩いて助けを呼ぶ?
でもコイツは、この場所からロクに動かないんだぞ?
いや、なんとか縄さえ切れれば…この部屋には俺の荷物がある。
そこから携帯を出せば、電波が届けば、あるいは―――

ものすごい勢いで考えを巡らせるが、やはりこの縄が問題だった。
それともう一つ、眠りさえしないのか、この場からほぼ不動の誘拐犯。
次第に空回りをし始める俺の思考が答えを出すより早く、事態は動いた。
「髪の毛じゃ説得力が無いし、何が良いんだろうね?」
男の中のシナリオに察しがついて、俺は首筋に鳥肌が立つのを感じた。

「…やっぱり、指、とか?」
冗談じゃない。
トカゲの尻尾じゃないんだ、そんなコトされてたまるか。
影が一歩、近寄る。
「来るなっ!」
何も飲んでないノドは、酷く乾いていたが、それでも声は出た。
牙でもあれば、身体を持ちあげて縄も噛切れただろうし
ナイフを持つ手にも、抵抗が出来たかもしれないが。

さらに詰め寄る影に、誰かの顔が重なる。
俺は吐き気を感じて―――


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