結局レイジのおかげもあって、”影色ボサ介二号”との命名は保留となった。
あくまで保留でしかないのが微妙なところではあったが、
ただ、事件はその数時間後、朝になってから起きた。
「ねぇボサ介、朝ご飯、食べる?」
朝から元気な笑顔を浮かべて、騒々しく扉を開け放ち、ルジュは開口一番にそう言った。
「…ボサ介って…」
げんなりとしたケルの呟きに、ルジュは小首をかしげる。
「ああ、ちゃんと名前が決まるまでだから」
「…まさか
びくり。
白く短い肩の毛は逆立ち、目は泳ぎ。
少女はまともに動揺した。
「…思ってたのか」
「んーん、ちっとも!」
慌ててブンブン首を横に振って、ルジュは話をそらした。
「そう言えばボサ介って、何月生まれ?」
「…駆月…
ほんの少し、ケルに自身の生い立ちを教えてくれるのは、くすんだ銀のネックレス。
昔の記憶を失くしていたケルが、決して手放さなかった貴重な首飾り。
鎖の輪には、青緑に輝く楕円の石が繋がっていて
そこには二匹の狼が円の上を走り、互いを追いかける様子が彫り込まれていた。
その狼は、駆月を象徴するものだったし、
裏には、酷く崩れた文字で誕生日を祝う言葉が刻まれていた。
だからきっと、自分は駆月の生まれなんだろうと、ケルは見当をつけていた。
なんでそんな話をするのか、不思議に思っているケルだったが
どうやらルジュは、何かが悔しかったらしく、唇を噛みしめていた。
「…それで、ルジュは?」
「
なんとなく聞いた問いに、やはり悔しさに沈む声。
まさかとは思うが。
「生まれ月が、自分の方が遅かったのが悔しい、とか?」
答えの代わりに、ケルに注がれたのは恨めしそうな視線。
ルジュの生まれた”角月”は、ケルの”駆月”の直後にやって来る。
だが生まれ月以前に、どう見てもこの白猫は、ケルよりも年下だった。
「…で、でもこの家じゃあたしが先輩なんだから!」
びしっと無意味に大げさなポーズを付けて、ケルを指さす彼女。
「いーい? 先輩の言うコトは、ちゃんと守るのよ!」
一人でそう叫ぶと、ルジュは部屋から猛ダッシュで逃げるように去っていった。
結局、彼女は何をしに来たのか。
一番最初に何か、用件を述べて居た気もするが
話が脱線しまくったせいで、まったく思い出せないでいた。
「ルジュの奴ヘコんでたけど…どうかしたのか」
入れ違いにやって来たレイジが尋ねるが、あまり心配した様子は無かった。
その手には何かが乗っていたが、とりあえずケルは質問に答えておいた。
「いや、生まれ月を答えたら、ああなった」
「ふーん」
やはり気の無い答え。
「まぁ、あいつはアレで実は12のオコサマだから、大目に見てやってくれよ。
っと言っても、オレも二つしか違わないけど」
「なら、同じくらいか」
え”、とレイジがその一言に驚いて固まる。
「いやもっと、おまえって歳が上かと…」
「知り合いに、14か15くらいだろうって言われてる」
淡々と答えるケルに、レイジはぎこちなく頷いた。
ケルの声をよく聞けば、確かにそれくらいの歳だろうと思いつつも、レイジは半信半疑だった。
「ところで…その手に持ってるの…何?」
そんな年齢の話など、ケルには関心がない。
それよりもよっぽど興味深いものを、レイジが手にしていれば尚更だ。
「え、ああ、朝飯持って来たんだ、まだ動けないだろ?」
「…食事ならさっき、一人で食べたけど」
ケルは困ったように答えるが。
「さっきって…何を?」
ケルが家の食材の場所など知るハズも無いし、そもそも動ける状態では無い。
疑問に思うレイジの前に差し出されたのは、茶色いガラス瓶。
「これが食事」
「………は?」
今度こそ、レイジは硬直した。
危うく皿を落とすところだったので、
レイジは寝具の横に添えられた小さな机に、それらを置く。
それから瓶を取って、フタを開け。
瓶を振ると、その手に薬のような錠剤が落ちて来た。
「……これが…食事?」
「そう」
「毎日?」
「そうだけど…」
「これだけ?」
「…他に何かある?」
そこで、レイジの頭は限界を迎えた。
部屋に緊急招集されたのは、ルジュとベスティ。
レイジから話を聞いて、沈黙する二人。
それを見て、若干戸惑いを見せるケル。
六つの目がそろって自分を凝視してれば、誰でもこうなる。
「……どうかしました?」
耐え切れずに、ケルが問いかける。
「どうかするだろ、何処で暮らしてたんだよ?」
レイジも困ったように頭をかいた。不安げに
「何処かは答えられないけど…それを食べるように教わったから」
何か変だったかな、とケルは苦笑する。
屋敷に潜入した時も、ケルは自室で一人、そうしていた。
使用人の食事時間はバラバラだったので、誰も気にしなかった。
他の物は食べないように、きつく言われていたのだ。
「とりあえず、食べてみてくれないかしら」
ベスティにそう言われ、ケルは恐る恐る未知の物体と対面する。
手に取った皿の中には、水が満ちていて、その中に何かが浮いている。
「消化に良いもの、作ったのよ。薬湯も混ぜてあるわ」
ベスティの言葉を聞きながら、ケルはスプーンを受け取り。
皿を睨み。
「……どう食べるんです?」
ケルが顔を上げたところで、三人が床に崩れ落ちた。