だがケルは、その先が言えない。
ケルは今までの自分の世界が、異常だったと気づいてしまった。
何の気兼ねもなく、会話を出来る普通の生活を知ってしまった。
もう戻れない。
―――なら、何処へ行けばいい?
ここを出て行ったら、どうすれば良いのだろう。
黙して袋小路に陥ったケルの頭に、声が響いた。
「―――刺客だったんです、とか?」
柔和な笑みを浮かべる白い猫の女に、言葉の先を取られ、ケルは詰まった。
物騒な母親の発言に、レイジは二人を交互に見やり、ルジュは首をかしげる。
「…なんで…」
ケルの頭の中は真っ白で、言葉が意味を成さない。
「あら、当たっちゃった? 怖いわね、女のカンって」
天気の話でもするような素振りで、ベスティは口に茶を運ぶ。
レイジは未だに、訳が分からないと言った様子で、
冗談だろと義母を笑ってやりたかったが、ケルの顔を見るとそうも言えない。
「だって、あなたの荷物には大きな刃物が入ってたし…
野菜を切るには大きいし、なんだろうとは思ってたのよ」
冗談交じりに喋りながら、林檎の皮をキレイに剥いていく。
「変わった道具もあったし、ハブの教え子じゃなさそうでしょ。
あなたの食事と言い、色々と見てたら何となく気付いたわ」
剥き終わったリンゴを小さく切って、娘に手渡す。
果実をほおばる白猫と、唖然とする豹と狼とが、どうにもチグハグだった。
「な、ならどうして、
家族に本当のコトを告げない夫も夫だが、こちらもどうかしている。
「私はあの人を信じてるし、任せるって言われちゃったんですもの。
あなたは絶対に無害だって、太鼓判も押されてたし――何かあったのかしらね」
本当に呑気に、緊張感の欠片も見せずに例の夜を振り返るベスティ。
ここでレイジが話に割って入った。
「じゃ、じゃあハブさんのケガって…!?」
「…俺がやったんだよ」
ケルはベスティから視線を外せぬまま、呆然と呟く。
「あのハブさんに傷って…おまえスゴいな…」
そこか、感心するところは。
「…油断って言うか、手、抜かれてたから」
左肩をさすりながら、少しばかり苦々しげに答えるケル。
しばらく床の木目を眺めてから、ケルは顔を上げた。
「怒らないんですね」
「あら、そりゃちょっとは心穏やかでは無かったわよ」
ベスティは、果物包丁を置いて伸びを一つ。
心外ね、と言ってるつもりだろうが、あまりそうは見えない。
「でも当人が許した相手を、私が怒るのは筋違いでしょう?」
「はぁ…」
拍子抜けしたような、ケルの声。
謝るタイミングを、完全に逃してしまった気がする。
「ねぇかーさん、ボサ介が”四角かった”ってホント? よく分かんないんだけど」
もしゃもしゃと林檎をほおばり、ルジュは早口と共に三人に視線を配る。
…さらに空気は微妙なモノに。
誰も「シカクカッタ」の意味が分からず、答えも用意できず。
しばしの沈黙を経て、ベスティは咳払いを一つ。
「とにかく。ハブは、あなたの安全を確保できるように動いてるんだと思うの。
だから、約束してくれれば、もう何も言わないわ」
「……約束?」
彼女は小さく頷いた。
「勝手に出て行かないことと、もう無暗に人を傷つけないこと」
「…ここに居て、良いんですか」
かすれた声で、呟く。
それが何を意味しているのか、当然この人は分かってる。
でもそれは、さすがのケルにも何処かムシの良い話に聞こえる。
「あなたが居ないと、レイジも困ると思うし…」
「な、なんでオレ!?」
唐突に義母に話を振られ、たじろぐレイジ。
「あら、初めてなんじゃないの? 友達」
その言葉にレイジは目を閉じうつむいて、何かに耐えるように震え。
赤豹にでもなったかと言うほどに全身を紅潮させると、顔を上げて吠えた。
「だからそう言うコト言うなって、言ってるだろっ!」
言うが早いか、家の外へ飛び出していく。
「あんなに恥ずかしがること無いのに…やっぱり年頃かしら」
「かーさん、デリカシーってヤツだと思うよ」
ぼやく母親に、静かなツッコミを入れる娘。
「…良いんですか、放っといて」
「落ち着いたら帰って来るでしょう。
とにかく、ハブは大丈夫だから安心すると良いわ」
念のために声を掛けてみるケルを尻目に、
ベスティは何事もなかったように、調理場へ消えていく…かに見えた。
「勝手に出て行ったら…覚悟しなさい」
その自信はどこから来るのか知らないが、白猫親子はそろってケルを睨みつける。
その視線に思わずケルがたじろぐのを見て、ベスティは居間を後にする。
ルジュも手伝いにか、ただヒマなのか、その後を追っていった。
なんだか、はぐらかされた感じがしたが、これで良いのだろうか。
ベスティの言葉通り、夜になると
気後れした様子のレイジが、ひょっこりと戻って来た。
居間の椅子に腰かけ、考え事をしていたケルの視界に彼が映る。
向こうもケルに気付いたようで、目が合った。
「外…雨降って来て…少し濡れちまったよ」
「雨は嫌いだな…」
恨めしそうに身体を揺すって水気を飛ばすレイジと同じく、
ケルも憂鬱そうに、窓の外へと視線を送る。
先程のことは、二人とも口にしない。
「うぁ、もう汚いな、ちゃんと身体拭いてよね!」
その腕の中には、うず高く積まれた荷物の塔。
軽く一言謝罪すると、レイジはルジュを呼び止めた。
「何してんだよ、おまえ」
だが、それがいけなかった。
少女はコロッと口元だけの作り笑いをして、義兄に向き直る。
「何って…ボサ介がもう大丈夫そうだから、色々と支度してるの。
お店だって、いつまでも休みにしておけないでしょ、とーさん居ないしさ。
誰かが勝手に飛び出すから、あたし一人で準備してたの、あー疲れた!」
さりげなく、だが強引に、ルジュが荷物を丸ごとレイジに押しつける。
一瞬、バランスを崩しかけながらも、何とか持ちこたえる。
「力だけはムダにあるんだから、それよろしく!」
「あ、おいっ」
ルジュは文句を言われるよりも早く、そそくさとケルの向かいにある椅子に腰を下ろす。
「何で俺一人に全部持たせるんだよ」
「ボサ介はケガした客人だもの」
慎重に歩きつつ不平を言うレイジを、ルジュはさらりと受け流す。
客人をボサ介呼ばわりしているコトに関しては、誰も指摘しない。
「って、何してんのよ?」
席を立ちあがってレイジに駆け寄るケルを、ルジュは面食らったように見つめた。
「何すれば良いのか、良く分かんないけど…手伝う」
「え、いや、いいって!」
などと、押し問答を始める二人。
騒ぎを聞きつけたのか、ベスティまでやって来た。
「手伝ってもらいなさいよ、レイジ。彼だって、何かしたいのよ」
そんな訳で、ケルが箱の荷物をいくらかコトとなり。
「これ、地下の食糧庫と練武場に運ぶんだ、付いて来て」
レイジに言われるままにケルは後ろを付いて行き、奥の扉へ二人は消えた。
***
「…彼、ここに居てくれるかしらね」
「心配?」
ベスティがぽつんと呟いたので、ルジュは頬杖を付きながら返事をする。
「あの子は当然だけど、まだレイジにもあまり気を許してもらえてないし…。
気になって、放っておけないけど――私じゃ荷が重いかもしれないわ」
「…でもあたしは、一人だとつまんない」
ルジュの明快な解答にベスティは微笑む。
「そうね、ルジュに言うことじゃ無かったわ」
改めて、ベスティは調理場に戻ろうとしたのだが。
―――悲鳴が、聞こえた。
白猫二人は顔を見合わせると、急ぎ地下へ走り出す。
外はいつの間にか、荒れに荒れていた。