鏡ノ欠片

騒動

薬を飲むわけにはいかないし、あれはもう捨てた。
発作はあれから起きていなかったし、安心していたのに。
毒を抜き取ったと聞いて、もう大丈夫だと思っていたのに。
自分の心臓が大きく脈打った気がした。
いつの間にかベルクは足を止めていて、気付いた二人が振り返る。
その口が動いていたが、言葉は耳に入らない。
「…ボサ介?」
ルジュのその言葉に、ようやく我に返ると
ベルクは、自分の変化に気付いた。

光の粒は、ぼんやりと穏やかに明滅しているだけで
目のくらむような閃光もないし、暴れる川のように流れ移ろいもしない。
なにより。
「……痛まない…」
今までこの身を ( さいな ) んできた、あの痛みが無い。
思わず、口をついて出た言葉。
―――痛まない!

突然、ベルクはいてもたってもいられなくなった。
思わずベルクはその場で大きく飛び跳ねて、荷物を放り出して駈け出していた。
とにかく、気分が良い。
解放感に任せて、何も考えずに道を走り抜ける。
後ろから慌てて追いかけて来る、ルジュの声が聞こえた。
レイジが何か叫んでいるのも、聞こえた。
でもベルクは止まらなかったし、二人がそれに追いつけるハズもなかった。

信じられないスピードで、笑い声を上げながら走り去る黒狼。
その背中をルジュとレイジは、呆然と見ていた。
その姿が見えなくなって初めて、二人はハッとする。
お互いに顔を見合わせ一つ頷くと、手近な家に住む友人に荷物を預け
すぐさまベルクの後を追いかける。

二人が異変を目にするのに、時間はかからなかった。
道や壁、店の商品に早すぎる霜が張り付き、所々凍りついているとか。
もぎ取られて店頭に並ぶ果実が、どうやって成長をしたのか巨大化しているとか。
建物が整然と、道の脇を固める一本道の場所で
なぜか横殴りの強風に見まわれたような跡があったとか。

とにかく不自然なコトだらけで、街の人はひどく驚いていた。
道は野次馬であふれ返り、二人は思うように進めない。
「これ、あいつがやったと思うか?」
「信じられないけど…そんな気がする」
レイジの驚きの声に、ルジュは顔を曇らせる。
「誰も、ベルクを見てなさそうだな」
「そりゃ、あんな速さで走られたら気付かないんじゃないの、普通」
常識はずれな、少し前の現実を思い返す白猫の声は、笑いを含んでいた。

肩で息をしながら、疲れ切った様子の二人が広場で見たものは。
花壇に倒れ込んで空を見上げる、ベルクの姿だった。
「あ、来たんだ…へへ」
ベルクは弱々しく言うと、満足そうに笑った。
「へへ…じゃないでしょー!」
すかさず文句を言いかけたルジュの口を、レイジが制止する。
ベルクの首から力が抜けたのか、その頭が横にカクンと落ちた。
それを見てやはり慌てるルジュだったが、ゆっくりと上下する胸を見て息をついた。
「…大丈夫、息はある」

放っておくわけにもいかず、二人は肩を担いでベルクを家に運び。
街の片づけを手伝って、荷物を運んで。
メドウの家に着く頃には、もう辺りはすっかり真っ暗で。
「あー、やっと来たんだ…待ちくたびれて眠ってたトコだよ」
机に突っ伏し寝ていたメドウを叩き起こすと、開口一番に彼女はそうのたまった。
ルジュはこめかみを押さえながら、静かな声で
「…で、荷物は?」
と、最低限の言葉で、なぜか部屋の空気が凍りついた。
何かを思い出すように、メドウはしばし頭をワシワシと掻いている。

「あれぇ、せっかく荷作りしたのにー、誰が片したんだろーなー?」
「連れが一人倒れちゃったから、のんびりしてらんないの。
 あたしは行くから…じゃ、二人で頑張って」
すっとぼけるメドウを、ルジュはイライラとした様子で椅子ごとひっくり返す。
「二人って…オレもかよ!」
レイジがまともに顔を引きつらせていたが、ルジュはとっとと出ていってしまった。
ひっくり返ってる女と家の玄関とを、何度か交互に見やった末。
レイジもルジュの後を追って、駈け出した。
「連れって…あの子かな…」
誰もいなくなった部屋で、一人彼女はそう呟いた。

「かーさん、ボサ介大丈夫?」
家に飛び込むなり、ルジュは二階に居るだろうベスティに呼びかける。
すぐに追いついたレイジは、何も言わずに階段を駆け上がっていた。
すぐに二階の部屋の扉が開き、中から真っ白な猫と、真っ黒い――
「おまえ、大丈夫なのかよ!?」
すかさずレイジが声を上げた。
ばつが悪そうにして二人の前に現われたベルクは、小さな声で謝った。

「もう大丈夫…ですよね?」
「話を聞く限り、そう思うわ」
確認を取るベルクに、しっかりと頷くベスティ。
深く息を吐いて、レイジは廊下の手すりにアゴを乗せてグッタリと。
視界の下方、階下の床には、床に座り込んでホッとしている少女の姿があった。

「どうやら、この子の発作は”本物”だったってコトかしらね」
首をひねるベルクを、ベスティは困ったように見ていた。
「しかも、かなり特異な症状みたいだねー」
来訪のあいさつ代わりにルジュを起こしながら、メドウはそう告げた。
夜遅くの訪問者に少々驚きつつも、ベスティは廊下から顔を出した。
「あらあなた、荷物はどうしたの?」
「そんなの今度で良いよ、ベス」

メドウは二階を見上げ、ベスティとベルクに向かって、ニッと笑った。
「それより、私の出番だろ?」
その言葉に、何かピンと来たようでルジュは隣の顔を覗き込んだ。
メドウは何も言わずに、一つ頷いて応えるだけ。
「そうね、それが良いと思うわ」
「なにがだよ、オレ嫌だよ!」
メドウを嫌そうに見つめていたレイジが、ベスティに噛みつくように反対した。

「ずいぶんと嫌われたねー、私も…」
間延びした声で感心しているメドウを、レイジが睨みつけたが
ルジュがそれをなだめるように声を掛けた。
「ベルクに教えるコトがあるんだよ、レイジは関係ないから安心しな」
渋々と言った様子で、それでもレイジは納得したようだ。

「それで俺、どうすれば良いんです?」
おろおろと視線を上へ下へと動かしていたベルクが、ようやく口を開いた。
「うん、君にはまず簡単な―――」
「――それよりオレら…結局さ、昼から何も食ってないんだけど…」
我慢の限界を迎えたのか、どこかで間の抜けた音が三つ、重なるように響いた。


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