ベルクはぼんやりと、寝そべって窓の外を眺めていた。
道に落ちた葉が、風に揺られてクルクルと踊っている。
それを見つめながら、何度目かも分からない深い息を吐くと、窓が白く染まる。
窓の曇りはすぐに晴れて、自分の顔を映し出す。
なんとなくそれが嫌で、顔をそむけて目を閉じる。
―――何もしないで、放っておけば良かった
自分の失敗を思い返していると、
熱い何かが詰まって息苦しい、その感覚の正体も、今はさすがに理解している。
「せっかく、上手く行ってると思ったのに」
秘文の訓練も地道に続けているし、未だ追手の気配もない。
他の人とも、馴染めてきたように思っていた。
あの時、かすかな悲鳴を聞き付けたベルクは、急いで通りを駆け抜けた。
橋を渡り、景色をぐんぐんと後ろに流して、すぐに問題の場所へたどり着いた。
こちらに背を向け、前を指さし何かを叫ぶ猫族の二人。
風がうるさくて、よく聞き取れはしないが、目で見るだけでも十分だった。
明らかに様子のおかしい、通りの先を走る人影。
通行人が驚いて視線を交互に振る中を、そいつは逃げていくように見えた。
―――捕まえれば良いのか
そう判断したベルクはさらに加速し、男に向かい合うよう回り込む。
かなり肩幅の広い、短い角を生やした牛族の男だった。
この辺りに住んでいる者ではないだろう。
いきなり自分の進路を塞がれた男の動揺は、意外にも小さかった。
「そこを退け、ケガするぞ!」
濃い褐色の身体を揺らし、男はベルクに向かって突っ込んできた。
どうやら、避けるつもりも止まるつもりも無いらしい。
話ができる状況でも無いと見てとって、ベルクはそのまま立っているコトにした。
牛はベルクを跳ね飛ばさんばかりの勢いで突進し―――直後、真横に吹き飛んだ。
流れるようにベルクの右足が、恐ろしく正確に男の側頭部を打ち付けたのだ。
頭から路地に積まれた木箱の山に突っ込んだ男に、崩れた荷物が降り注ぐ。
―――荷物、直さないと
最初に浮かんだのは、そんな考えだった。
だが路地に近付いてベルクは、ふと足を止めた。
木箱の影が、動いた気がする。
なんだろう。
目を凝らして、気付く。
血だ。
その瞬間、辺りから音が消えて無くなった。
自分が今何をして、何を思って近づいたのか。
ベルクはそれに気付いて、思わず周りに目をやって。
注がれる視線が、妙に耐えがたかったのを覚えてる。
駆け付けた店員の一人が、小さく息を呑んで崩れた荷物に近付くのが見えた。
ベルクは急に自分が怖くなって、男を助けもせずにその場から逃げだしたのだ。
あの盗人の男は、今どうしているだろうか。
ベルクは無意識とは言え、急所に一撃を見舞ってしまったのだ。
”ケル”としての自分を、街の人に見せてしまった。
吹き飛ばした男の存在を忘れて、荷物の心配をしたなんて信じたくなかった。
きっとあの時、酷く冷めた顔をしていたに違いない。
久しく感じていなかった、ずっと感じないようにしていた、
この苦い思いに耐えるようにして、ベルクは身体を丸めた。
頭の芯が凍えるように冷えているのに、腕の中の身体は温かかった。
「なんだよ、昼寝か?」
無造作に扉を開け放ち、ベルクの部屋にやって来たのは、レイジだった。
「急にどっか行ったと思ったら、辛気臭い顔しやがって…」
「…だって俺…怖がらせちゃったし」
一番自分が怖がらせたのは、自分だったけれど。
やれやれと言った様子で、レイジは頭を掻いていた。
「そりゃそーだ。
おまえ、自分が普段どんなか分かってないだろ?」
「どんな…って?」
いつものように、レイジは寝具に腰かけた。
「普段から愛想振りまいてたおまえが、急に大男を蹴り飛ばしたら誰でもビビる」
その言葉に、よく分からない声を上げてベルクは縮こまった。
レイジは、なおも冗談まじりに続ける。
「しかも何だよ、あの足の速さ…オレ置いてけぼり」
「ごめん…」
うなだれるベルクの頭に、レイジの手が乗った。
「怖がらせたって言うか、驚かせただけだろ」
「そうかな……」
さすがにこんな言葉で納得するわけがないか、とレイジは思い直す。
「大体おまえ、あいつが刃物持ってるって知ってたのか?」
ベルクの答えを待つ必要はない、顔を跳ねあげたその反応で分かる。
「おまえが気に病む必要ないだろ。
店の連中が追いついてたら、逆に危なかったんだしさ」
「…相手がどうとかじゃ、ないんだ」
レイジが何をしに来てくれたかは分かっていても、ベルクは首を振った。
「自分のしてきたことを時々忘れてる、とか
今また同じことをしようとしてる、とか…よく分かんないけど、怖い」
うまく言葉に出来なくて、ベルクはうつむく。
確かに”ケル”の事は忘れてしまいたい。
でも、いざ忘れているコトに気付くと、急に怖くなるのだ。
「あんまビビってると、発作が起きた時に困るってメドウが言ってたぜ?」
そう言われると、余計に心配事が増えるような気もするが。
「そんな怖がりさんに、渡すものがあるんだけど…もう入って良いでしょ?」
廊下からヒョコッと顔をのぞかせるのは、ルジュだった。
隣でレイジが渋い顔をしていたが、ルジュはスタスタとやって来て。
「これ、御礼らしいよ、例の店の人から」
ベルクが受け取ったのは、両手には少し余るほどの大きさの箱だった。
「御礼…?」
「盗人つかまえたんでしょー、その御礼じゃないの?」
いぶかしがるベルクに、ルジュは呆れたとでも言いたそうな様子で付け加えた。
「でも皆、あの男のこと心配してたし…俺、余計なコト…」
「してない、してない。まぁさすがに死なれちゃ困るけど」
ベルクの言葉をルジュはアッサリ遮って、手をパタパタ振った。
「いま店の人が下に来てね、むしろベルクのこと心配してるよ。
『なんだか悪いことをしたみたいだけど、大丈夫か』って。
どんな顔してその場から逃げたんだか…後でちゃんと会っておきなよね」
いまいち釈然としない様子で、ベルクは一つ頷いた。
何か考えているベルクに、レイジは一言付け加えておいた。
「オレはベルクが自分を怖がってるって聞いて、少し安心した」
きょとんとした、その琥珀の目がおかしくて、思わずレイジは笑った。
「それで平然としてる奴だったら、オレは逃げる」
「あ、じゃーあたしも」
ルジュは何かに参加するかのように、手を挙げた。
「…それで、結局あの人はどうなったの?」
ほんの少しだけ、さっきよりも明るい調子でベルクは尋ねた。
思い出すように天井を見つめながら、レイジが答える。
「さすがに、頭を切ったから出血はしてたけどな。
気絶もしてなかったし、しっかりしてたぜ―――タフなおっさんだよ、ホント」
そこでベルクは、首をかしげた。
「すごい血が出てた気がするけど…」
「え? ああ…あれセンリョーだぞ?」
一瞬、分からないと言った顔をしたが、レイジは朗らかに笑った。
そう言われても、ベルクには分からない。
「センリョーって、何?」
「いや、知らねぇ。聞いただけ」
「……」
「…服を染めるのに使う、色のついた水のコトだよ…。
水にする前の、材料を入れた箱だったみたいだけど」
ルジュが、ムダに胸を張って答えるレイジに呆れながら答えた。
つまりあの時、ものすごい量の血に見えたあの液体は…
「物凄い勢いで押しつぶされて、汁が出てきたんでしょ、たぶん。
店の人が悲鳴を上げたのだって、あの荷物が壊れたせいだし」
ベルクの頭の中を見透かしたように、ルジュがまとめる。
そこで初めてレイジは、あの犯人がズブ濡れだった理由に気付いた。
「なんにせよ、蹴り飛ばされたのが
昔のオレみたいな、かわいそーな子どもじゃなくて良かったぜ」
おどけた様子のレイジに、ベルクが笑う。
「うわ自分で言ってる…。
とりあえず、今度からもっと手加減してあげなよね。
無傷でとっ捕まえるくらい、できる相手でしょ?」
「ああ…それに、荷物をダメにしたの俺だし…謝ってくる」
ルジュのもっともな意見に、ベルクは重々しく頷いた。