店を開ける前に、ベルクはメドウに言われた通りに
一人、家の周りに広がる林の中で”秘文”の訓練をするのが日課になっていた。
定期的に、メドウは様子を見に来てくれている―――相変わらず眠そうではあるが、今日のように。
「少しは慣れてきた?」
「もう少し、かな…」
最後の最後は自分の感覚頼りなので、アドバイスはもらい難い。
後から聞いた話だが、ベルクが街で起こしたような騒ぎを防ぐために
本来ならばベルクは、然るべき場所に集められ、指導を施されているべきだったのだそうだ。
別に今からでも遅くはないのだが、それはベルクが普通の経歴を持つ場合。
今までが今までだけに、そう言った場所に行くわけにはいかない。
そんな事情があるので、なんとか一人でやる必要があった。
自分でも分かる程度の、少しの成果は出てきた。
すぅっと頭を切り替えるようにして見える、もう一つの世界は
吸い込まれるようにして眠った時の、夢の中と似ていた。
その中で、しっかりと何かを思い描いておくと
多少なら文字の意味が分からなくとも、どうにかなる。
メドウが言うには、”
秘文の”法則”を示す文字を、ある程度操れる者は
それが示せれば、どんな場所でも待遇が良くなるから嫌でも覚えておけと。
ルジュとメドウから、そう言われている。
具体的に、何か良いコトがあったかと言うと……まだ何もない。
「程々にしないと、今日は大変なんだろ”先生”?」
そう言うなり、メドウは背を向け一足早く戻って行く。
そう言えば、今日はレイジと共に練武場に顔を出す約束だった。
そろそろ店の準備をする時間でもあったし、ベルクも訓練を終わらせた。
青みがかった早朝の景色が薄れ、徐々に色鮮やかなものに変わって行く。
ベルクは家に戻って―――いつの間にか、ここが”家”になっていると気付いた。
少し遅れてきたレイジと、練武場の準備に取り掛かった。
と言っても模擬剣や防具などの、備品の状態を確認するだけだが
量が少なくはないので、それなりに時間は要る。
ちなみに白猫親子は、食堂の準備をしているだろう。
練武場にはチラホラと人が集まり始め、挨拶を交わしていくうちに
最終的に、10人と少しが集まった。
下は10歳前後の子から、上は40ほどの大人まで。
ベルクが手伝いを承諾した後すぐに、だいたいの紹介は済ませている。
いきなり全員を覚えるコトはできなかったが、そこにはパギの姿もあった。
例の目の細い、柔らかな羊毛を持つ少々影の薄い…
最後は余計か、ともかく街に出た時に出会った、あの男だ。
「一の型、始めっ!」
レイジの号令でハッと我に返ると、ベルクは人の間を縫うように歩いて回った。
一斉に、広場で同じ動きをする人の群れは、見応えがある。
半歩横に動いてからの、突きの動作。
重心の維持や移動が、見た目に反して難しい。
最初は準備運動や呼吸法の確認、次に型の反復。
最後は二人一組で、順番に型を使い分けた攻防。
そういう流れになっている。
「身体が横に流れてます、足の運びを正確に」
ベルクにはまだ型の知識は少ないから、基本的な動きの助言しかできない。
つま先と腰に手を添えて、立ち位置を矯正する。
「少し呼吸の乱れもありそうですから、後でレイジに聞いてください」
こんなもので良いのだろうか。
ベルクとは反対周りにレイジが見て回って来て、ニッと笑った
「そっちの様子も見てたけど、そんな感じで頼む」
「一年かそこらで、よく人に教えられる腕前になったもんだな」
確かレイジがここに引き取られて、一年ほどだと記憶している。
「そこはアレだ、オレのセンスの良さが光ったんじゃねぇの?」
目を閉じ自信たっぷりと言った顔で、レイジはかなり得意な様子だった。
「あんまりレイジを調子に乗せない方が良いよ」
「おまえは、よそ見すん…って言うか寝るな!」
横手から上がった声に、素早くレイジが切り返す。
つられて目をやれば、のんびりと笑い床に身を投げ出す灰猫の姿。
「いやぁ、疲れちゃって。体力つけに来てるんだけど」
力なくしながらも、その顔から笑みは消えない。
「おまえは無さすぎだ、ローラン」
ため息まじりのその声にも、何故かやはり彼は笑顔のままだ。
その隣では、パギがローランを見下ろして笑っていた。
「これでも体力は付いた方だって、思いたいですけど、友人としては」
「そこは素直に、そう思ってくれないかな」
灰猫は寝返りを打つようにして、深く息を吐き出した。
***
模擬戦は午後からの予定だったが、この日は特別にと言うか
ベルク達が周りに押し負けて、型の反復の後に始めるコトになった。
どう言う訳か、食堂に居る客がギャラリーになる始末。
当然のように、向かい合っているのは―――
「―――大怪我しても知らないからな」
憮然と言い放つベルクと。
「いやオレも、おまえとはやりたくねーんだけど…
ま、まぁ身体は頑丈だから、たぶん平気だろ」
やや怯え気味のレイジの二人。
ベルクが木の模擬剣すらも嫌がったので、拳を補強するのみの格闘の形式になった。
”レイジは元より素手が得意だから、これで何とかなる。
よしやれ、すぐやれ、さっさとやれ!”
興奮で少々おかしくなった空気の中、こうして二人は防具を付けて向かい合っている。
実際、ベルクはレイジの腕前は知らないし、素手は本当に得意ではない。
それでも自分の避けたかった展開にされてしまって、ベルクは困っていた。
子どもに泣きつかれた覚えの無い身には、少々手荒い話の持って行かれ方だ。
―――レイジも、何だかんだで押しに弱いからな
ため息を吐きながら、ベルクは何もせずに負けようか、などと考えていた。
「ねぇレイジ、やめといたら?」
ピクリとも動かない二人を眺めつつ、審判のルジュが口を出した。
「い…いーや、ここまで来たらやる。
おい、わざと負けたら承知しねーぞ!」
ちらりとギャラリーに視線を走らせ、自信に活を入れるレイジ。
どうやら一人で勝手に腹を決めたらしい。
「…レイジ、ベルカンド、両名構え―――」
もう知らない、とでも言いたそうな様子でルジュは腕を振りあげた。
「―――始めっ!」
振り下ろされた手と同時に、レイジが距離を詰める。
レイジは様子見の一打を見舞うが、ベルクに片手で受け流される。
体勢は崩さず、そのまま身体を反転させて胸元を狙った脚が振り下ろされる。
しかし当然、振るった脚は空を切る。
ぶぉっ。
ベルクの耳元で風切り音を立てて、文字通り空を切るレイジの脚。
どうやら、レイジは本気のようだ。
その音を頭上で感じながら、ベルクは反射的に動きそうな手足を抑えていた。
レイジの動きが思いの外に鋭くて、つられて身体が動いてしまう。
”オレのセンス”と言うのも、案外その通りなのかも知れない。
これは本当にちゃんと相手をしないと、後で何を言われるか分からない。
さすがに夜に紛れるなんて、無理な場所と時間だが
ベルクは身を
それを読んでいたのか、ベルクの手刀は腕で防がれた。
すかさず放たれたレイジの拳は、ベルクの右肩をかすめる。
―――さすがバカ力
防具越しにもかかわらず、ビリッと走る衝撃を感じながら
すかさず繰り出されたレイジの追撃を、ベルクは身を低くして回避する。
そのまま勢いよく身体を伸ばし――
レイジの伸ばされた腕が戻るより早く、その手をつかみ
ずるり。
黒狼は思いっきり、豹を宙へ放り投げた。
―――放り投げた?
「…あ」
しまったと、気付いた時にはもう遅い。
背中から床に叩きつけるようにするハズだったのに、手を放してしまったのだ。
レイジの殴りかかる前への勢いと、下から上へのベルクの動きが加わって
誰もが悲鳴を上げる間もなく、練武場の入口の方へレイジの身体はすっ飛んで行く。
ドッ
響く、鈍い音。
「…ケガは無いかい?」
たまたま入口に現われた男が、しっかりと背中からレイジを抱き止めていた。
一瞬この場に走った緊張は、またたく間に消えてしまい
投げられたレイジすらも、起き上って絶句した。
目の前に居たのは、柔らかな栗色に虎縞のある猫族の男だったのだから。